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宮天

満宮

【浜の宮天満宮】(はまのみやてんまんぐう)

 

当社は旧郷社であり、10世紀の創建と伝える。
文化元年(一八〇四)『播州名所巡覧図会』には「天満宮 浜の天神といふ」とある。

                    

飾磨橋西地区10ヶ町(江戸時代の飾磨津浦手六町のうち須加町・宮町・大町と岡手五町のうち上町・細江町)の氏宮でもある。

御祭神は「学問の神様」としても知られている「菅原道真公(すがわらのみちざねこう)」(承和12(845年)~延喜3(903年))で、その菅原道真公が政治的不遇を被った怒りを静めるため神格化しお祀りされています。

これは道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになり、火雷天神が祭られていた京都の北野に「北野天満宮」を建立して道真の祟りを鎮めようとしたと言われています。


「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。
道真が生前優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、今なお多くの受験生が合格祈願に詣でています。参拝して筆を買うと受験に利益があるとも言います。

道真が梅を愛し、庭の梅の木に、
【東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ】
と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅がシンボルになっていることが多く、また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使(祭神の使い)とされています。

浜の宮天満宮はもともとは宮町にありましたが、慶長年間に「池田輝政」が跡地に姫路藩の貯蔵庫(米蔵)として御蔵が建造され、現在の須加町に遷されたといわれています。浜の宮天満宮秋季例祭において、元御蔵前を神幸祭の御旅所にする所以(ゆえん)となっています。

当時、神社の南側は松林が広がり近くまで海が迫っていたと言われています。

境内にある「折居の松」は、和泉式部が植樹したといわれています。
境内には江戸期の石造物が多く、社殿横の石燈籠は元禄12年(1699年)のもの、また境内の力石は天保13年(1842年)、恵美酒宮の力石と同じ「大浜岩吉」の奉納によるもので、姫路で最古の遺品だそうです。

力石の分布状態は、市街地区には見られず、海岸に近い農・漁村や内陸部の農村に多く見られます。これは、力石が体力を必要とする人々の鍛錬として、またはその力試しが盛んに行われていたことではないかと伝えられています。

ほかにも、手水鉢は寛政10年(1798年)、狛犬は弘化3年(1846年)、境内末社に文化12年(1815年)の石燈籠があります。

また、社殿前の東側の神牛は、明治11年に越前や加賀の北前船船主たちが奉納したもので、飾磨津が北前船の寄港地であったことを物語る貴重な遺品です。

常夜燈には、魚問屋、生魚仲買中、宮町釣船中、魚売子中などの文字が彫られ、漁業関係者に信仰が厚かったことを示しています。

また、境内に祀られている「えべっさん」は宮町の宮と築屋敷・須加町の西部と東部の4ヶ所にあったものを移したもので、このようなことから、漁業の神としての夷神を祀ったものが浜の宮の祭神で、その上に菅原道真の天神信仰が重なったものが、この神社の歴史ではないかと思われます。

平成26年5月、寛政12年(西暦1800年)に制作された「浜の宮天満宮・大鳥居の神額」が発見され、飾磨所縁の彫刻師「松本義廣一門」の「2代目小河義保師」により復元。同年、9月15日に「復元新調神額・奉納式」がおこなわれました。

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